内田樹氏による「言いよどみ」の発見

前回の更新から、19日が経過し、現在、20日目である。

三日坊主とは、よくいったものだ。

ほかの人はどうだか知らないが、私は言葉が溢れて仕方ないときもあれば、

内側に言葉を溜めておきたい時期もある。

どちらも、必要な時間だ。ま、休みが長すぎたのは反省しているが。

 

言葉は、まさにそれを書いているときに、言葉の生成のただなかにある。

その渦巻のなかに身をおくことこそが、書くことの愉悦である。

だから、寄り道もするし、自分でもよくわからないぬかるみに足をつっこんだりして、

われながら「自分がなに言ってんのかよくわかんない」事態のなかに突入することが、あえていえば書くことだとさえ思っている。

 

自分にとって、書くという行為はそういうものだ。

この主張は、少しでもバルトやドゥルーズなんかをかじった人にとっては、耳垢ていどの「そらそうでしょ」て話かもしれない。

だが、理屈として知っているのと、自分がそれを実現できているのか、

そこには大きな溝がある。

「自分が何言ってんのかよくわかんない」事態について、最近の日本で、もっとも適切な説明を与えた人物として、内田樹氏がいる。

 

内田樹氏の最大の功績は、「言いよどむ」ことに、積極的な意味を見出した点にある。少なくとも、私はそう思っている。

 

彼は、留学生かなにかの面接に立ち会った際、たとえばシリア情勢について意見を求められたりした学生が、まさに「言いよどんで」いる事態に遭遇する。

そこで内田氏は、その「言いよどみ」こそが、知性である、という仮説を立てたわけである。ここが画期的なところだ。

かつて吉本隆明は、「言葉の幹は沈黙である」と言った。

それはそれで、詩人の彼らしい言葉ではある。

内田氏は、もうちょっと実践的、かつ常識的な範疇で、知性や言葉について考えているように見受けられる。

 

先の面接の話に立ち戻ると、すこしでも常識的に考えれば、日本の一般的な学生に、そんな問いを立てた場合、滑らかに答えをさくさく繰り出すような輩は、たいていの場合、ただ「議論に負けない」テクニックを知っているだけの、言ってしまえば、「薄らバカ」である。

内田氏の議論は、そういう常識に依っている。

 

「それは考えたことがなかった」問いに答えるには、

自分の既知の要素をなんとかつなぎ合わせ、それなりに理路が通るように整理と編集を施す。

少なくともその二つの作業が必要なのは言うまでもないが、

重要なのは、ここで、理路を整理することのみに執着してしまうと、

愚にもつかない、「どっかで聞いたことある」空語になってしまうという点である。

そんな空語を恥ずかし気もなく、ベラベラしゃべるりたてる者が「優秀」とされる査定は、どうにもおかしいのではないか?

内田氏の義憤(のようなもの)は、ここにあったと考える。

 

そこは、「言いよどんで」当然なのだ。

自分の言葉によって語ったり、言葉を紡いだりするには、話ながら書きながら、「ここ、よくわかんない」という部分を発見しながら、そのピースを自分の実感によって埋めていく作業が不可欠である。

ところが、自分の実感というのは、多くの場合、自分にとって自覚的なものではない。

まして、未知の問題に対処するとき、自分でも思いもしなかった、自分の実感に出会ってしまうから、うろたえる。躊躇する。二の足を踏む。

具体的には、「えーと」とか、「あのー」とか、フィラーが乱発され、まさに「言いよどむ」。つまり、醜態をさらす。

しかし、これが知性の自然な姿である。

これが内田氏の解答だと、私は理解している。

 

こういう、一見すると、「なんだか効率の悪そうな知性」を旗頭に登場した内田氏を、最初に評価したのが、加藤典洋さんであったことは、やはり再考に値すると思っている。(了)