「わからないけどやる」覚悟について(橋本治的人生訓)

すこし落ち着いたので、忘れないうちに、いまの状況について思っていることを記す。

落ち着いた、というのは、コロナ状況に関して、である。

言っておくが、いまも発表される感染者数は、率直に言って、ウナギ登りである。

「率直に言って」とわざわざ書いたのは、

東京都に関して言えば、

感染者数の集計方法にも疑問があるし、

一応、ほぼ3日遅れで発表される検査数にも疑問が拭えない。

なにしろ、どのような検査対象が、その位のウエイトを占めているのか、そういったことも全く明らかにされない。

総じて、信用がならない。

しかし、信用できる数字を出せ、信用できる検査体制にしろ、と言ったところで、

まさに「暖簾に腕押し」であることは、もはや自明である。

そして、そのただなかを、私たちは生きていかなければならない。

だから、ジタバタしたってしょうがない、と言っているのではない。

死ぬか生きるかの場面で、ジタバタしないヤツは、ただのバカである。

だから、今後とも、私は、潔く、ジタバタさせていただく。

 

ここから、しかしながら一方で、という話をさせていただく。

 

 薄汚い泥沼にはまり込んでいる状況下で、「なんでこの水はこんなに汚ねえんだ!」と怒るのは当然であると同時に、それにばかり全精力を使い果たすこともできないのが、わたしを含む、多くの人々のおかれた状況である。

 それぞれの人には、仕事・学業・家事など、まこと多くの「やらねばならないこと」があるわけで、人間には等しく、1日には24時間しか与えられていない以上、この混乱のなか、すべての情報をキャッチアップし、それを自分なりに分析することは、やはり不可能である。

 したがって多くの人は、天気予報よろしく、毎日聞かされる感染者数を無批判に受け止め、しかもそのデータに一喜一憂するという、修行僧なんだか頭の悪いガキなんだか、ちょっと不思議な人になってしまっている。

 というと、他人事に聞こえそうだが、私もまた、そんなようなものだ。

 繰り返すが、基礎となるデータが示されない以上、どんなに分析を試みたとて、「うすぼんやり」状況に変わりはないのだから、そうした情緒不安定は、むしろ当然である。

 そして、感染はむしろ拡大する可能性が高いのだから、この混乱状況が収束するには、かなり幅をもった時間が必要であることは、まず確定だ。

 

 すると、かなり恐ろしいことに、年単位で、私たちの限られた時間(余命)にある生活そのものが、この「うすぼんやり」感に、完全に制圧される可能性がある。コロナを制圧する前に、こっちの人生は「うすぼんやり」に制圧されてしまう。

 これはなかなかに、由々しき事態である。「うすぼんやり」に気を取られているうちに、あっという間に青春は終わり、人生が終わることすら、考えられる。格段の手も講じていないうえ、ワクチンだってできるかわからないのだから、その可能性は高いと言える。

 するとまあ、学業も疎か、仕事も適当、恋もできない、要するに、何もできないまま無為に時を過ごすことになる。

 これはこれで、たいへんな人生の浪費であり、バカげている。

 

 これを回避するには、もはや現在進行中の「わからない」という事態を、この身に引き受けるほかに道はない。

 少なくとも、その覚悟を決めないかぎり、「わからないから、何もやらない」という状態が継続することになる。それが嫌なら、腹をくくることだ。

 「わからない」を引き受けるのにあたって必要になるのは、二つの段階を経た、態度変容である。

 まずはじめに、「わからない」という、知的に不十分である状態を、素直に認める態度が必要である。この知的な不十分さについては、再三述べたように、個人の問題ばかりに帰着させることはできないので、モヤモヤする人は多かろう。しかしそれでも、「いま、自分には、わからない」という状態であることは変わりない。

 ふたつめには、「わからないけどやる」という態度を決めることである。あるいは。「わからないからやる」という、屈折してるんだか自信があるんだかの態度でもいい。とにかく「やる」と決めることだ。

 「わからない」場合、多くの人は、「わからないから、やらない」という消極的な選択を取りがちである。その状態は、「何もせずにぐずぐずしている」とまったく同義である。

 迷っている人は、大体、「わからないから、やりたくない」状態のぬかるみに入り込んでいる。そういうとき、誰がどんな助言しようが「やらない(やれない)理由」を、自らの置かれている状況から、見事な手さばきで探り当て、場合によってはそれを論拠に、相手を論破する。しかし、それでは、一生そのぬかるみから脱することはできない。ぬかるみから足を、えいやっと抜き出すのは、その人の覚悟でしかない。そして、覚悟というのは、「にっちもさっちもいかない状態」をまずは満喫し、自分の非力を痛感し尽くした瞬間に生まれる、身体的(内臓的)な統御の感覚である。

 

 いま書いたようなことは、何もコロナで今年はじまったことではない。もう元ネタがばれているだろうが、ここに書いている「わからない」に関する件は、橋本治氏による『「わからない」という方法』に多くを依っている。

 

 橋本氏は、これを個人における方法として提示した。本稿も、いたって個人的な心づもりについて書いたつもりである。

 

 しかしながら、たとえば検査を「やらない理由」ばかりを探すことに終始している現状をみると、どうも社会全体が、「わからないから、やらない」の方向に、一億総出で向かっているようにもみえる。

 「やらない理由」探しならまだいいが、より致命的なのは、「やらない(やれない)」ことを前提として社会が動いているようにさえ見える傾向である。

 個人的には、そういう社会に対しては、ちょっとうんざりしているし、最初述べたとおり、引き続き、ジタバタする予定である。

 一方で、私は私の仕事をする。言ってみれば、そう決めただけのことだ。

 

 「今さらかい」と笑う人は、さしあたっての仕事が面倒で、つい、ツイッターのTLをチェックしたり、という経験が皆無なのだろうか。多くの人は、そうではないだろうから、こうした兆候を笑えるほどではない自覚くらいは、あったほうがいいようい思う。(了)