父の日

父の日が、近づいているらしい。

自分の父がどうこう、という話は置くとして、

誰にでも「ああ、こんなお父さんだったら」と、理想の父親像を描いたことくらい、あるのではないだろうか。

 

私の場合は、幼いころのそれは、ご近所の由美ちゃんの、お父さんだった。

由美ちゃんのお父さんは、明らかに細君に、というか家族にコケにされていた。

由美ちゃんも、そのお母さんも、どうも、お父さんに対して評価が厳しく、よく「頼りない」とかいう言葉を、彼本人に向けて、ずけずけ放っていた。

彼は、掃除を命じられれば、掃除もするし、帰りの遅くなった私を送っていけ、と言われれば、快く私を家まで送り届けてくれた。

帰り着く我が家では、父君が威張り散らしている。

そう考えると、つい気鬱になり、ときに、由美ちゃんの家に生まれたかった、とすら思った。

 

前世紀の、のっぺらぼうに無個性な郊外住宅地は、見たところ、どの家も同じようなものだ。

とはいえ、自分の帰るべき家は、由美ちゃんの家ではない。

 

こんな柔軟な、父性もあるのか。

私にとっては、父への嫌悪よりも、この驚きのほうが大きかった。

世紀をまたいだ現在、どうやら世の趨勢としては、由美ちゃんのお父さんのありように、軍配が上がっている。

とはいえ、父を責めても仕方ないと思う。

彼は彼なりに、家族を愛していたのだから。

 

 

そういえば、先日、内田樹氏と内田るん氏による、親子の往復書簡である『街場の親子論』を読んだ。

それについて内田氏が、「親は謝り、子供は許す」ことについて語っていた。

 

誰もが、自分の育った家庭に対して、潜在的には不満はあるだろう。

なかには、自分の親を許しがたい人もいるだろう。

それは各人で事情が違いすぎるので、なんともいえないが、

できることなら、親を許すべきだと思う。

それは、親のためというより、自分のためだ。

そこに淀んだわだかまりを抱えたままだと、自分を愛することは、なかな難しい。

 

そういうわけで、今更ながら、父に花を送ろうと思い立った。

彼は、なぜかピンクの花が好きだと、最近知った。

あまりのキャラクターとのギャップに、驚きもし、笑いもした。

結局のところ、私はまだ、父のことを、あまりよく知らないのだろう。

家族のことは、うんざりするほど知っているつもりでいても、とても限られた側面しか知らない。

全方位的に、その人を知ることはできないし、とくに家族は、「わからない」存在として付き合うくらいが、ちょうどいいような気がする。

古希を過ぎた、ガンコなおじいちゃんに、ピンクのブーケを。