「変な言い方」で普遍的なことを言う。

 加藤典洋氏の著作を、「逆から」読んでいく、という試みを続けている。

 理由は、加藤さんが、少しずつ「小さな字」から「大きな字」へと移行していく過程が、すこぶる面白いからである。

 その面白さは、加藤さんが、やはり偉大な思想家であったという事実を、端的に示している。少なくとも私の意識の奥底には、そうした直観がはたらいている。

普遍的なことをいおうとすると、変な言い方になってしまうことが、「批評を書く」ということである。

  この加藤さんの言葉は、そのまま加藤さんの文章に当てはまる。つまり、加藤さんの言い方は、いつも少し「変な言い方」なのだ。

 自分の本当の気持ちを、文章として文字化することなど、到底できない。書くことができることなんて、たかが知れている。言語の不可能性。そこに加藤さんは、かなり初期から意識を向けている。

 

 とくに近代、言文一致という制度によって、まるで、思いの全てを言葉にすることが可能となったような錯覚が、現在にいたる日本語を覆いつくしている。加藤さんが『日本風景論』で指摘しているのは、その欺瞞と傲慢さである。

 ツイッターには、表層だけをなぞる言葉ばかりが並ぶ。その浅はかな言葉の群れは、「言葉なんてその程度」とでも言わんばかりの、言葉に対すて思慮も敬意もない意識が「ダダ洩れ」である。『日本風景論」が出版されたのは、1990年。当時は、「ただの」文芸批評であった言葉が、30年たった今になって、現在進行形の事態への的確な批評として生きてくる。

 

 言葉の表層ではなく、その深部に流れる何かをつかむこと。言葉の深部に通底する何かを抽出し、それを提示すること。 

 加藤さんにとって、批評家の仕事とは、そのようなものだった。

 

 しかし、待て。

 書いてみると明らかになるが、そんなことは、批評家は、誰でも目指している。

 加藤さんから匂う、批評家としての「異質な感じ」は、どこから来るのか?

 

 その問いに対する答えが、『僕が批評家になったわけ』で明示的に示される。この著作の内容は、2005年に書かれている。『大きな字で書くこと』に直接つながる、加藤さんの自伝的内容であるとともに、なかば直観であるが、おもに「他人の言葉」を取り扱ってきた加藤さんが、「自分の言葉」の鉱脈にたどり着いた作品ではないだろうか。

 いや、ずっと前から、加藤さんは、自分の言葉で語ってきた。けれど、『敗戦後論』に代表されるように、どこかこう、歯切れの悪さがあった。言いきらない、言いきれない。座りが悪い。

 けれど、本当に内省し、言葉の深部を知る人が、「言い切る」ことなんて、可能だろうか?そんなに、「相手の目を見て」「言い切る」、そういう一見すると格好いいだけの姿勢が、すべてだろうか?

 

「欧米人は、人の目をしっかりと見て話す」(『敗者の想像力』)

 『敗者の想像力』は、この書き出しにはじまる。こう続く。

この種の考え方にあうたび、なんだかばかばかしいな、という気持ちになった。

 

 長い間、外国で生活を送ってきた加藤さんが、この根本的な欧米的なありよう、「国際標準」と言われる姿勢について、疑義を呈していることは、もっと注目されていい。いわゆる欧米的な、マッチョイムズに対して、加藤さんは、「イヤだ」と明言する。

 人間に敬意を払い、思慮を尽くす人間が、人間に畏怖の感情を抱くのは、当然である。同時に、言語に敬意を払い、思慮を尽くす人間が、言語に畏怖の感情を抱くのもまた、当然である。

 

 加藤さんの、「回りくどさ」と「面倒くささ」。

 つまり、いつも「変な言い方」になっていまう理由は、そこにある。(了)