なぜ、ここまでFAXか(1)

 ここのところ、にわかにFAXが注目を集めている。

 都の感染者情報のやり取りは、いまだFAXでなされている。

 それが、もう笑うしかないほどのローテク感を醸し出しているから、世の関心が集まるのも無理からぬところである。

 

 さて、かく言う私の自宅にもまた、FAXがある。

 理由は簡単で、親がメールなどの、つまりFAX以上の「ハイテク」(?)な通信手段をもたないからである。

 そこで先日、「なぜここまでに、日本人の高齢者は、テクノロジーに対して拒否反応を示すのか」という話題について、知人と、ああだこうだと語りあったが、あまり実のある結論にたどり着けなかった。

 なので、その結論を探るべく、私なりの見解を明らかにしたいと思う。

 

 まず、高齢者がアレルギーを示すのは、総じて「新しげなもの」全般であり、とくにテクノロジーに限った話ではない、という前提を忘れてはならない。

 先週、宮藤官九郎がテレビで、個人的には興味深いことを話をしていた。彼は、もう若いアイドルの名前と顔が一致しなくなって久しく、また、それを特段、「まずい」ことだとも感じない、と告白したのである。

 これは、自分にも思い当たるフシがある。

 ある時から、若いアイドルグループの個別認識ができなくなり、そしていつからか、「もうわかんなくていいや」と匙を投げたのである。

 したがって、私もクドカンも、人生のどこかの時点で、その分野に関する「新しいもの」に対して、無知である、あるいは無知であって構わないという、ある種の決断をしたわけである。

 こうなると先日、私が同年代の友達とともに、親世代がスマホを「できなくってかまわない」という開き直りをみせていることを、少しばかり蔑んだことは、明らかに自分を顧みない所業だったと言わざるを得ない。

 恥ずべき所業としての、そのときのダベリは、およそこうである。

 つまるところ、親世代は、今更「新しいもの」に触れて恥をかくリスクよりも、触れないまま、つまりバカのまま何もしないことによる現状維持を選択した結果、反知性的であるという態度を決定したのだ、というような身もふたもないようなダベリである。

 ところが、である。

 先のクドカンの告白に、私は大いにうなづくわけであり、したがって私にも「知らなくっていいもん」という、反知性的な態度を決め込んだ部分があることは、明らかである。

 私は先日の態度を猛省する。他者について語ったうちの大体のことは、そのまま自分に当てはまる、という真実を目の当たりにする。

 

 ひとまずの結論を先に述べると、人が歳をとると事態は、多少の差こそはあれ、「新しいもの」に鈍になっていく、その意味で、非常に反知性的な事態である。

 

 歳をとるのと、時代が進んでいくことは、ほぼ同義であるのだから、生きたスパンに相当するうだけの多くの情報と接しているわけである。年齢を重ねるからといって、脳にとって新鮮味のある情報に出会わなくなるはずはなく、時代は進行しているのだから、むしろ「新しいこと」は、そこらじゅうにあふれかえっているはずである。ところが、大体の人間は、その情報すべてをキャッチアップすることができない。これに対して、「脳のキャパシティが追いつかないのだ」という言い訳は、それなりに有効にもみえ。しかしだがら、そもそも人間が、どの程度、自分の脳を活用しているのかについては大いに疑問が残るし、人間のもつ普遍的な属性として「怠け者」が挙げられることを鑑みると、「キャパシティ」節は、それほど効力をもつようには思えない。

 

 むしろ、私自身を振り返ると、キャパ云々よりも、「知らないでもいいや」と決め込んだ、自分の無自覚のうちの決意のようなもののほうが重要に思える。

 

 そもそも情報というのは、驚きとともに摂取したときの方が、脳に保存される確率が高い。ところが、年齢を重ね、経験を積むにつれ、自我、つまり「ワタクシなりのこだわり」という檻の強度は増してゆく。問題なのは、ここである。自我というのは、非常に厄介で、これがないことには、社会生活において、自己同一性とやらを担保できないし、かといって、これにばかり固執していると、「自分の世界観と合致するものしか目に入らない」という状況を引き起こす。

 するとどうなるか。世界のどの風景を見ても、どんな人物をみても、「何をみたって同じ」という、「シニカル・バカ」のド真ん中に、自分を埋没させることになる。そうなった個人は、あらゆる事態に対して、シニカルな態度を取ることが可能となり、ひいては、「シニカルに物事を見ている俺って素敵」くらいの、猛烈に恥ずかしい勘違いすら引き起こすのである。

 そこまで恥ずべき事態には陥っていないことを願うばかりだが、しかし、私がアイドルグループの個別認識ができないのは、動かし難い事実である。

 

 私のこの状態は、もはや「新しいこと」にいくら出会っても、見なかったことにする、という、私の、涙ぐましい、誠心誠意の努力のたまものとして認定すべきである。要するに、知ることを諦める。その分野については、「どうでもいい」とガン無視を決め込む。まさに反知性的な事態を、みずからのうちで、私は、無自覚なままに率先して進行させているのである。

 

 さあ、私は、この残念すぎる事態を放置してよいのか?

 

 この自問自答から、なぜ日本社会がいまだにFAXを溺愛するのかについて、考えてみたいのだが、疲れた(2000字くらいが疲労の目安)ので、今日はここまでとする。

 

 続きは明日。よって(続)